色彩の中へ feat. 高野寛

 リリカルなピアノの調べがサウダージ(郷愁)な気持ちを呼び起こす。まるでブラジル音楽のもっとも美しい上澄みを掬い取ったかのような一曲が、トベタ・バジュンのアルバム『青い蝶』(2008年)のラストにひっそりと収められている。

 この「色彩の中へ」は、トベタ・バジュンのオリジナル曲ではない。1996年の中谷美紀のファースト・アルバム『食物連鎖』に収められていた楽曲のカヴァーである。このアルバムは、冒頭の「MIND CIRCUS」が昨今90年代シティポップの名曲としてじわじわと評価を高めていることで知られている。全編のプロデュースと大半の楽曲を坂本龍一が手掛けたことでも人気の作品だ。その中でも「色彩の中へ」は、アンニュイな中谷美紀のヴォーカルに魅了されるアーバンなテイストのボサノヴァに仕上がっており、非常に完成度の高い楽曲だ。

 作曲はヴィニシウス・カントゥアリア。70年代から活動するブラジルのシンガー・ソングライターであり、90年代半ば以降はニューヨークを拠点に活動し、アート・リンゼイやビル・フリゼールらとの交流を進めながらボサノヴァをはじめとするブラジル音楽に新たな風を吹き込んだ人物でもある。彼が坂本龍一の依頼で提供したこの曲は、ボサノヴァのエッセンスが凝縮されたようなメロディラインを持っており、凛とした美しさを感じさせる。もちろん、坂本龍一によるアントニオ・カルロス・ジョビン直系ともいえる室内楽的なアレンジも見事だ。

 加えて、作詞を高野寛が手掛けているのも特筆すべき点である。情熱的かつ神秘的な歌詞の世界は、ボサノヴァのサウンドに見事にフィットしており、彼が持つロマンティシズムがにじみ出ているのが感じられる。話をトベタ・バジュンのカヴァー・ヴァージョンに戻すと、ここでフィーチャーされているヴォーカリストが、この高野寛である。いわば、高野寛によるセルフ・カヴァーとしての側面もあるテイクなのだ。

 トベタ・バジュンは、中谷美紀のオリジナルを聴いてその素晴らしさに魅了されて以来、いつか自分の解釈でカヴァーしてみたいという想いを長年抱き続けてきた。そして10年越しでついに実現したというのがこのヴァージョンなのだが、カヴァーする際に「中谷美紀が主演する架空のロードムービー」というコンセプトでアレンジを構想した。完成されていた坂本龍一のアレンジを一度解体し、端正なメロディを抽出。そのメロディを生かしながら、静かなピアノでソフト&ジャジーに始まり、徐々にパーカッションや木管楽器が加わっていくあたりは、坂本龍一へのオマージュのようにも捉えられる。しかも、このイントロダクションが2分半以上も続き、ようやくその後からヴォーカルが聞こえてくるという斬新な構成になっている。

 長いイントロの後に満を持して登場する高野寛のヴォーカルにも注目したい。憂いのある歌い口は中谷美紀の印象と共通するが、シンプルなアレンジに乗せることにより、彼の普段の明朗な歌声の印象とはひと味違う気怠さを感じさせる。例えるなら、ブラジル音楽史上に輝くガル・コスタとカエターノ・ヴェローゾの名盤『Domingo』(1968年)のような空気感だ。高野寛は1986年にデビューして以来、「虹の都へ」やオリジナル・ラヴの田島貴男とのデュエット「Winter’s Tale ~冬物語~」といったヒット曲を生み、トッド・ラングレンとの交流などもあってカラフルなポップ・ソングの名手といったイメージがある。しかし、「色彩の中へ」では、そういった彼のパブリック・イメージとはまた違う、ノーブルで静謐な世界が広がっているのが非常に興味深い。

 トータルで7分以上という長尺の大作に仕上がっている「色彩の中へ」は、まさにそのコンセプト通り、1本のショートムービーのようなドラマ性を感じさせてくれる。トベタ・バジュンのアルバム『青い蝶』に対して、気品に満ちた作品という印象を持つのは、坂本龍一が参加した「Asian Flower」で始まり、この「色彩の中へ」で締めくくられるからだろう。そう考えると、この曲はアルバムの重要曲のひとつであると同時に、トベタ・バジュンの渾身のアレンジが味わえる名ヴァージョンと言えるのではないだろうか。

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この記事を書いた人

音楽と旅のライター、選曲家。1970年生まれ、大阪出身。レコード会社勤務の傍ら音楽ライターとして活動を開始。退社後は2年間中南米を放浪。帰国後はフリーランスで雑誌やウェブの執筆、ラジオや機内放送の構成選曲などを行う。開業直後のビルボードライブで約5年間ブッキングマネージャーを務めた後、
再びフリーランスで活動。著書に『ブエノスアイレス 雑貨と文化の旅手帖』(毎日コミュニケーションズ)、『アルゼンチン音楽手帖』(DU BOOKS)、
共著に『喫茶ロック』(ソニー・マガジンズ)、『Light Mellow 和モノ Special』(ラトルズ)などがある。2022年2月に上梓した『「シティポップの基本」がこの100枚でわかる!』(星海社新書)が話題を呼び、
NTV『世界一受けたい授業』を始めテレビやラジオなど各種メディアにも出演。コンピレーション・アルバムの企画、レコードジャケット展示の監修、トークイベントの出演なども行う。
2023年9月に発表した『「90年代J-POPの基本」がこの100枚でわかる!』(星海社新書)が好評発売中。

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