音は、いつから薬で、いつから武器になったのか。

音楽は、娯楽になる以前に、薬だった。
これは比喩ではない。事実として、そうだった。
古代ギリシアにおいて、音は数であり、数は秩序だった。
ピタゴラスが弦の長さと音程の関係を見つけたとき、人々は「美しい音」に感動したのではない。
世界が、数で説明できることに震えたのだと思う。
音は、身体に触れる。
耳ではなく、神経に。
旋律は感情を動かす前に、心拍と呼吸を動かしてしまう。
だから当時、音楽は医師の仕事だった。
薬草と同じ棚に、旋律が並んでいた。
やがて時代は進み、音は資本と結びつく。
ルネサンス期、音楽はパトロンの所有物になった。
神に捧げるため、権力を誇示するため、都市の威信を示すために、音は磨かれ、管理され、体系化された。
ここで音は、「機能」を持つ。
人を救うためではなく、秩序を保つための機能だ。
宗教音楽は魂を鎮め、宮廷音楽は階級を可視化した。
音は、誰のために鳴っているのか、明確だった。
20世紀、音は決定的に裏切られる。
ナチス・ドイツにおいて、音は拷問に使われた。
リズムと反復は、人間の思考を壊すために利用された。
旋律は、治療ではなく、兵器になった。
ここで一度、音は完全に「中立」ではなくなる。
善でも悪でもなく、
使う側の意思を、正確に増幅する装置になった。
この事実を、私たちはあまりにも軽く扱っている。
それでも、音は再び医療へ戻ろうとしている。
アメリカでは、PTSDや慢性疼痛、睡眠障害に対して、
音や振動を用いた治療が保険適用の対象になり始めている。
ここで重要なのは、「癒やし」という曖昧な言葉ではない。
音が、測定され、再現され、効果検証されているという点だ。
音は再び、数へ戻った。
古代と同じ場所に、科学を連れて帰ってきた。
私は、ここに「音の原点」があると思っている。
音は本来、自由なものではなかった。
むしろ逆で、
厳密に管理されるべき“身体と心に作用するもの”だった。
だから私は、
音を“感性のコンテンツ”としてではなく、
数値化された機能として扱いたい。
どの音が、どの状態に、どの程度作用するのか。
それを人間の勘や経験に委ね続ける時代は、もう終わっている。
「薬用音楽」という言葉を、私はスローガンとして選んだ。
挑発でも、レトリックでもない。
音が、
・誰が作ったのか
・どこで使われるのか
・どんな効果を持つのか
それらが曖昧なまま、世界を巡ることの方が、
よほど危険だと思っている。
だから、音をブロックチェーンで管理する。
所有のためではない。
責任の所在を、明確にするために。
国境を越え、用途を越え、
医療、睡眠、空間、教育へと安全に流通する
「サウンドOS」を作りたい。
それは、
音を自由にするためではない。
音を、正しく縛るための仕組みだ。
音は、ずっと人間より先を知っていた。
私たちがそれを娯楽にしている間も、
兵器にしている間も。
今度こそ、
音を、本来あるべき場所へ戻したい。
薬として。
数として。
そして、責任ある技術として。
